もち苺枕草子





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:: 2012/10/20(Sat)

毎晩泣き続ける母をどうすればいいのか未だにわかりません。
何も出来ないし、どんな言葉も今の母の前には煩わしくて無意味に違いないから。

私はまだ一度も声をあげて泣いてない。
私が泣けるのは母が落ち着いて誰を支えられる力が戻った時。
母の悲しみを理解できるひとはいない。

父の優しさや暖かさ、それを私は名一杯受けたのだから言葉で表現できない感情でごった返すのも自分で理解できる。いい加減で最低な父親なんかではなかったから、世界に誇れる位優しい父であったから、だからこそ未だによくわからない。

大声をあげて泣くと何が起きそうで怖い。


やっぱり声をあげてなくことができるのは勇気のある証拠なのかも


それでも私はこうして息をしてのほほんと生きてるんだよね。
父とまた一秒また一秒離れながら



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火葬 :: 2012/04/28(Sat)

火葬が迫ってくると、一体いつがほんとの別れなのかわからなくなってしまいます。
心臓が止まり死亡確認された瞬間なのか、身体がこの世から消える火葬の時なのか。
一連を味わって、すべては生きている人間のエゴなんだと思いました。
悪いとかではなくて、そうするしかないからそうしているだけで、している本人もそうするしか、そう思うしかないと思いながら自分に言い聞かせて生きていくんだなと。

だって、天国へ行ったり、生まれかわって来たり、誰かの元にいくなんてことはないと思うから。
証明することはできないし、だから私は信じられない。
すごく信じたいけど。


おとうさんはしんだ
どこにもいかないし、もうどこにもいない
もう会うこともできない

でも、誰かの記憶に残るとか、誰かに影響を与えたもというのは、永遠ではなくても確たる証拠じゃないかな。
自分自身で証明できるし。

神も仏もいない、でもひとはいる。





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■付きタイトルが間に合った :: 2012/04/24(Tue)

何よりも有難う。
私は幸せ者です。

午前1時、父がなくなりました。
56歳。誕生日まであと2日。
退院まであと1日でした。
深夜血を吐いて、うちに電話がきた時にはもう意識がなく、その後すぐ亡くなったみたいです。
痛みを感じないくらいの突然だったらしく、皆で送れなかったのは悲しいけど、苦しみが少なかったならせめてよかった。

この日の朝はとても綺麗に晴れていて、快晴です。
綺麗な朝日と一緒に、母と弟と私と父は家に戻ってきました。

有難う。大好き。
でも今は、何も信じてないはずのお父さんが線香くさいのが悲しい。


有難う。
大好き

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■北風が止んだ :: 2012/04/18(Wed)

私は幸せ者だ
24年も父に愛し続けてもらって、いろんな話、場所、物をもらった

ほんとに幸せ者で恵まれてる
願わくば、この幸せが一日でも長く続きますように
父に愛してもらえる時が一時間でも長くありますように

死んだ後どこにいくとか、どうなるとか、まだ答えが出ません
どれも納得いかないし

父の死に方はふたつらしい。
ひとつは転移した癌によって、肺動脈をやられて大量の血を吐いて死ぬ
もうひとつは、食道癌が大きくなりすぎたせいで呼吸ができなくなって死ぬ

悲しいけど、どちらの場合でも私は仕事場にいたら間に合わないかもしれない。否、間に合ったら奇跡だ。
死に方は両方とも苦しむ可能性がかなり高い。
血を吐く場合はもうお手上げらしい。
呼吸の場合はもしかしたら救急で助かるかもしれない。

母はそんな父を見てられないと言った。
でもそれは違う。私たちが目を背けたら、父はまさに死ぬほど辛いその瞬間ひとりになっちゃう


教会も何度か通って見たけど、やっぱり神も仏もくそくらえだ。

父が苦しみながら死ぬ、これは近いうちに(先生がいうには一週間)起こることなんだろうけど、現実ってのは、今起こってるから現実なわけで、これからくる現実なんて言葉は少し変な感じがする。

裏切られる可能性が高すぎるけど、それでも信じます。
父がなんだかんだと一週間後も生きてる事を



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本とはなんぞや :: 2012/03/06(Tue)

先日お客さんと雑談していたら、
「うちの子全然本を読まないのよーテレビでアニメ見るかゲームするか、
マンガ読むか、ケータイ弄るかばっかりでね〜」
なんて話になりました。

テレビもマンガもゲームもケータイも面白いでしょうが、
私は小学校中学校高校くらいのうちは外でいっぱい遊ぶの推奨派なので
それ以外のことして遊ぶのも結構楽しいと思いますけどね〜なんて話をしました。

でもそもそ「本を読む」って何を指してるんでしょうか

あくまで個人的な考えですが、私の中では「本」に小説は入りません。
勿論便宜上今なんの本読んでんのー?って言われたら
小説の○○みたいに答えたりとかはありますけど、
小説は本ではないという感覚です。

本ていうのは出典が明らかで、「知識」として成り立つものだと思うんです。
例えば小説のシーンでフランスのモンサンミシェルが出てきて、
その景観やつくりや歴史が出てきたとします。
大方の場合それは正しい情報でしょうが、無論全部が全部そうなワケではなく、
小説は娯楽であり芸術のひとつだと思うので、
色気みたいなものがないといけない気がするんです。
だから「この物語はフィクションです」なんて書かれたりするんですもん。

一番ダメは本を読まないことよりも、
事実か虚構か分からない知識をそれと思い込んで知識披露しちゃうこと。
無実無根の情報をこれぞとばかりに言っちゃうこと。
私もついつい「○○ってこうなんだってー!」なんていっちゃいますが、
これもホントはよくない。

本当の教養というのはその事実の真偽を確かめるべく
出典元をたどり、時代背景やかれこれの知識を統括して
最終的な答えを自分で出すことではないでしょうか
といっても、そんな面倒なことをいちいちするわけもないので、
そこで役に立つのが本なワケです。これがホントの本じゃないでしょうか。

小説は作り物の世界で、資料は作り物ではありません
(勿論、資料でさえ誰かの手が入り捻じ曲げられてるものは存在しますが)

本を読め、という人は何を指しているのが大抵が具体的でない気がします。
本を読めといったわが子が、東野圭吾や村上春樹の小説を手にとったら満足なのでしょうか。

私はそこから真の教養は生まれないと思います。
小説を否定しているわけでも、マンガを否定しているわけでもありません。
ただ本は心の栄養とかおっしゃる人は完全に本=小説ですよね。
小説から人のあたたかみや、優しさ、時には厳しさなんかを勉強してくださいねっていう。

知識だけが並べられた本から
人の感情を読み取っていくのは一朝一夕のことではないと思います。
それが少しでも分かったときは最高に嬉しかったりロマンを感じたりしますけどw


小説は小説、マンガはマンガ、本は本。
どれがなくなっても困るし、全部あれば最高じゃないですか。


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